りりことは。

ただただ日々思ったことを書いたり、今までの記憶を思い出して綴ったりするブログ。

幼少期。

1988年9月7日。

まだ出産予定の1か月も前のこと。
あと1ヶ月はあるから早めに行っておこうと
出張に旅立った父の思いとはうらはらに
私はこの世に産声をあげた。

鹿児島県鹿児島市
中古の家電量販店を営んでいる両親と
5歳年上の姉と共に小さなアパートで
4人家族の生活は始まった。

とはいえ、幼少期の記憶等
ほとんど残っていない私にとって
こんな書き方をし始めた自分が恨めしい。

覚えていることといえば、
幼稚園時代は、黎明学館幼稚舎という
結構上層教育が発達している幼稚園で、
とにかくカッコいい男子にキスをせがむ子だった。

褒められることが好きで探検が大好き。
小学校に入学して3日目くらいの時、
一緒にバス停まで向かうはずの母が家から出てこなかったので
もう一人で向かっていいんだ!と喜んでバス停に向かい、
バス停にいたほかのお母さんたちに
すごいわねぇとほめられ
誇らしげにしてる私のあとをおって
息を切らした母が追ってきたのは懐かしい。
ただ、忘れ物をとりに扉が閉まっただけで
娘が急にいなくなったらそれはビックリするだろう。

そんな小学生時代、なかなかに
不思議ちゃんを貫き通していたようだ。
なんだか同学年の友達とはなじめず、
低学年の友達が多かった。
なぜか小学の時分からりりこ先輩と慕われていた。

一人でいること自体は苦ではなかったので、
昼休みには、のんびり学校周りを散歩し、
花壇近くで折れてしまった花を拾っては
美術室にある水差しによく花を挿して
種ができるのを楽しみにしていた覚えがある。
これも不思議ちゃんと言われる行動だったのかもしれない。

同学年のみんなとなじめないことに
特に不満を持つこともなく、
いじめられていたつもりもなかったので、
すっかり忘れているが、
登校用のカバンが意図的に壊されて
帰ってきたことがあると大きくなってから母に教えてもらった。

一度、信号鬼ごっこという遊びで
嫌われてるのかなと確かに思うことはあった。
鬼は目をつぶり、赤、青、黄を叫ぶ
赤というと皆が立ち止まり
青というと皆が動き回る
黄というと皆が手を叩きながら動き回る
目の見えない鬼はそれをヒントに
みんなを捕まえようとする遊びだ。
階段付近で同学年の子たちが遊んでいるから
仲間に入れてほしいと言ったら
快く受け入れてくれたが、
途中から入ったから鬼やってね
と言われ、鬼をやることになった。
目をつぶって、青を叫ぶ
動いている気配はあるがなかなか捕まえられない。
赤と叫ぶが今度は手探りしても誰も見つからない。
音で探ろうと黄と叫ぶと、手をたたく音がしない。
まさかと思い、目を開けてみると
誰もいなくなっていたのだった。

さすがの私でもこれはいじめだなぁ
なんて思ったが、
まあ、気にしても仕方ないし、
とがめても仕方ない。
なかったことにして
次の日からもその子たちとは普通に今まで通り接した。

そんな小学時代を過ごしているある日、
父がちょっと連れていきたいところがあると
私を東京に連れて行ってくれた。
学校も普通にある日だったが、その日は休み、
鹿児島空港へ。
空港内を歩く最中、忘れ物を思い出して、
絶望的な顔をしながら父と母を呼び止めた。

「大変…、バスポート持ってきてないよ…?」

父と母はきょとんとした。
絶望的な顔をしているから
どんな忘れ物だろうと思って
聞いたらパスポート。
今まで国内は車でしか移動したことがなく
飛行機に乗るとしたら海外。
パスポートがないと飛行機に乗れないと思ってた。

きょとんとした二人は一拍置いて大爆笑。
10歳にして国外経験豊富な娘に対し、
さすがわが娘と言いながら
笑うもんだからよくはわからないが、
そんな間違えも誇らしく思えた。

私の記憶している限り、
小学卒業までに4か国いった。
韓国、マレーシア、フィリピン、アメリカ。

韓国は、どこかの国に行くついでに
行くことが多かった。
乗り継ぎ便で安いのである。
3歳のころ、ロッテワールドで写真を撮った記憶が
私の中で一番古い記憶だ。

次は、小1にアメリカ ラスベガス。
当時小6だった姉は中学受験で
日本でお留守番だった。
ラスベガスに向かう途中の砂漠の中
タクシーで走ってる最中に
あそこからお姉ちゃんが手を振って
走ってたら面白いのにねぇ
と意味わからないことを口走ってた記憶がある。
あと、砂漠のアリはとにかくでかかった。

マレーシアは小3くらいだったか
家族でランカウイ島に行き、
とても贅沢なひと時を過ごした。

そんな感じで2年毎に海外に
家族で旅行に行くのが通例であった幼少期だが、
やはり一番思い出深いのは
ミレニアムイヤーに行ったニューヨークである。

つづく